あなたは三好長慶の後継者であった三好義継がどんな人だったかをご存知でしょうか。
先代の三好長慶に比べるとパッとしない思う人もいるかもしれません。
でも実は、織田信長の上洛を引き入れたりするなど、歴史に影響を与えている人物だったりします。
そこで、三好長慶の後継者の三好義継はどんな人だったのかについて、若江城の戦いなども含めて、簡単にご紹介したいと思います。
三好義継はどんな人だったのか
三好家の家督相続と足利義輝の殺害
三好義継は、天文18年(1549年)に十河一存の子として生まれ、初めは十河重存(そごう しげまさ)という名前でした。
十河一存が三好長慶の弟なので、三好義継は三好長慶の甥にあたりますね。
永禄4年(1561年)に父であった十河一存が病死してしまい、さらには三好長慶の跡取り息子であった三好義興が亡くなってしまったため、三好義継は三好長慶の養子となり、この時に名前を三好姓に改めます。
永禄7年(1564年)に三好長慶がこの世を去ると、三好義継は、三好長逸や三好宗渭、岩成友通の支持を受けて、三好家の家督を相続しました。
ちなみに、三好長逸、三好宗渭、岩成友通の3人の武将をあわせて「三好三人衆」「三人衆」などと言ったりします。
永禄8年(1565年)に室町幕府の将軍であった足利義輝から「義」の字をもらって、「義重」と改名しました。
ところが、突如として二条御所を襲撃して足利義輝を殺害してしまいます。
その後、名前を「義重」から「義継」に改名しています。
まとめると、三好義継の名前は次のように変わっていきました。
十河重存⇒三好重存⇒三好義重⇒三好義継
その後、三好義継は、三好三人衆と共に松永久秀と戦い、三好三人衆と不仲になると、今度は松永久秀と共に三好三人衆と戦うなど、味方を変えながら戦い続けます。
織田信長との関係
永禄11年(1568年)、三好義継は松永久秀とともに織田信長の上洛に協力しました。
その後、織田勢に協力して三好三人衆と戦っていましたが、元亀2年(1571年)に松永久秀とともに織田信長に反逆します。
三好義継が奮戦した若江城の戦い
三好義継は、織田信長により差し向けられた佐久間信盛の軍と若江城で戦うことになりました。
織田軍に若江城を攻められた三好義継は、城の外へ躍り出て多くの敵兵を打ち倒すなど奮闘したと言います。
さらに、そのように戦った後、腹を十文字に切腹して死ぬという最期を遂げました。
その最期があまりにも凄まじかったため、信長公記という書物の著者である太田牛一から「比類なき御働き、哀れなる(感動する)有様なり」と賞賛されています。
三好家の子孫
三好義継の妹の子である孫九郎は、三好生勝と名乗って織田信長に仕えて、石山本願寺との戦いにも参加し、河内国で5490石を与えられたと言います。
さらに三好生勝は豊臣秀吉、黒田長政、浅野長晟に仕えることになり、その子孫は広島藩の藩士となって明治時代を迎えることになったそうです。
三好家の一族は後の時代まで続くことになったんですね。
歴史のロマンを感じるところです。
大河ドラマ「麒麟が来る」にも登場
大河ドラマの「麒麟が来る」にも三好義継は出ています。
第23話で黒部弘康さんが演じる三好義継が登場していますね。
まとめ
三好義継が、三好長慶の実の子ではなく養子であったことや、若江城の戦いで奮戦して最期を遂げたことなどが分かりました。
実の父が武勇で名を馳せた十河一存であったため、三好義継も実は猛将だったのかもしれませんね。
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