戦国時代に活躍した戦国大名として三好長慶がいますが、彼を支えた人物として安宅冬康がいます。
あなたは安宅冬康がどんな武将であったかご存知でしょうか?
そこで、三好長慶の家臣であった安宅冬康がどんな人物であったのかを、逸話なども含めて簡単にご紹介したいと思います。
安宅冬康の人物像
安宅冬康(あたぎ ふゆやす)は、三好元長の三男として生まれました。
安宅冬康は、淡路国の水軍衆であった安宅治興の養子として送り込まれ、安宅氏の家督を継承しました。
これにより水軍の提督として三好家の繁栄を支えたわけですが、その一方で、その性格は優しく穏やかであり、人望も高かったと言われています。
ちなみに、長男が三好長慶、次男が三好実休、四男が十河一存です。
安宅冬康は、兄である三好長慶に仕えていたわけですね。
安宅冬康の和歌
安宅冬康は和歌に優れていて、「歌道の達者」という異名を持っていたほどです。
そんな彼が残した歌集は次のようなものが有ります。
- 安宅冬康句集
- 冬康長慶宗養三吟何人百韻
- 冬康独吟何路百韻
- 冬康賦何船連歌百韻付考証
安宅冬康の逸話
主君の三好長慶を諫めた
安宅冬康の逸話としては、心穏やかな人物であり、三好長慶が復讐心に駆られて、あるいは血気に逸って敵対した人達を容赦なく殺戮する姿を見て、鈴虫を贈ったというものが有ります。
安宅冬康は「夏虫でもよく飼えば冬まで生きる(大切に育てれば鈴虫でさえ長生きする)。ましてや人間であればなおさらである」と三好長慶に無用な殺生を止めるように伝えようとしたのです。
兄である三好実休との歌のやり取り
三好実休が恩人である細川持隆を死に追いやったことを悔い、「草枯らす 霜また今朝の 日に消えて 報いの程は ついにのがれず」と詠んだのに対して、安宅冬康が「因果とは 遥か車の輪の外を 廻るも遠き みよし野々里」と詠んで返したという逸話も有ります。
安宅冬康の最期
安宅冬康は、永禄7年(1564年)に三好長慶から飯盛山城に呼び出されて、自害させられてしまいます。
安宅冬康はまだ37歳であったと言います。
三好長慶が安宅冬康を自害させた理由については、様々な説があるようです。
例を挙げてみると、次の通りです。
- 安宅冬康が謀反しようとしていた
- 三好長慶の家臣であった松永久秀の謀略があった
- 三好長慶が三好義継に家督を譲るのに安宅冬康が邪魔だった
- 三好長慶がうつ病にかかっていて正常な判断ができず安宅冬康を自害させた
諸説いろいろ有りますが、安宅冬康が死んだあと、三好長慶は大変後悔したと言われています。
これがきっかけで精神を病み、三好長慶はそのまま後を追うように同じ永禄7年(1564年)に病死することになりました。
まとめ
安宅冬康が安宅氏の養子になっていたことや、温厚な人柄で和歌にも長けていたことが分かりました。
もし三好長慶が安宅冬康を自害させていなかったのなら、どのように歴史が変わっていたのか気になるところですね。
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