あなたは三好長慶の家臣をどれぐらいご存知でしょうか?
戦国時代において勢力を拡大し、織田信長が上洛する前に実質的に畿内を支配していた三好長慶には、数多くの武将が仕えていました。
そこで、三好長慶の家臣をまとめてご紹介したいと思います。
三好実休
三好実休は、三好長慶の弟です。
三好長慶が三好元長の長男であり、三好実休は次男にあたります。
文武の両方において優秀な武将であったとされ、三好家の四国方面の軍事と政治の両面で活躍しました。
しかし、36歳という若さで久米田の戦いで戦死することになりました。
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安宅冬康
安宅冬康(あたぎ ふゆやす)は、三好元長の三男として生まれました。
安宅冬康は、淡路国の水軍衆であった安宅治興の養子となり、安宅氏の家督を継承しました。
これにより水軍の面から三好長慶の勢力拡大を支えたわけですが、その一方で、その性格は優しく穏やかであり、人望も高かったと言われています。
しかし、最期は三好長慶に自害させられることになり、亡くなってしまいます。
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十河一存
十河一存(そごう かずまさ)は、三好元長の四男として生まれました。
十河家は養子となり、十河家の家督を継ぎました。
摂津江口の戦いや、中尾城の戦い、北白川の戦いなど数多くの戦いに参戦した猛将であったと言われています。
しかし、30歳という若さで病死してしまいます。
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松永久秀
松永久秀は、主君である三好長慶が京都を支配した際、公家や寺社との折衝を担当していました。
その後、松永久秀は大和一国を統一するなどの働きを見せ、三好家の家臣の中でも有力な家臣として頭角を現していきます。
久米田の戦い、教興寺の戦いなどの合戦にも参戦するなどして三好家の中で活躍していきます。
三好長慶やその弟たちが亡くなった後は、三好三人衆と共に三好義継を支えていたものの、次第に対立することになり、ついには三好三人衆と戦うことになります。
劣勢に立たされていたところに織田信長が上洛することになり、これに協力する形で三好三人衆を畿内から追い出すことに成功しました。
しかし、その後は織田信長に対して一度ならず反逆し、最期は信貴山城で自害することになりました。
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三好三人衆
三好三人衆は、三好長慶の家臣として活躍した三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3人のことを指します。
三好長逸は三好一族の長老的存在として活躍し、江口の戦いや、東山の戦い、北白川の戦いなどといった戦いに参戦しています。
三好宗渭は、初めは三好長慶と戦っていたものの帰順して家臣となり、三好家の中で高位の地位を得ることになります。
岩成友通は、三好一族ではないですが、見事出世を果たして三好家の中枢に入った武将です。
三好長慶の死後、三好三人衆は、松永久秀と争い、さらには織田信長とも戦うことになりましたが、最終的には敗北してしまうことになります。
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篠原長房
篠原長房は、三好長慶の弟である三好実休の重臣でした。
三好実休が久米田の戦いで戦死すると、三好実休の長男であった三好長治(みよし ながはる)を支えて、実質的に領国の統治を行っています。
三好長慶が亡くなった後は、三好三人衆に味方して松永久秀と戦うことになりました。
文武の両面において優れた武将であったそうですが、最期は主君の三好長治に攻められて死ぬことになりました。
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まとめ
三好長慶には数多くの武将たちが仕えていたことが分かりました。
畿内を実質的に支配するまでに勢力を拡大した三好長慶の家臣団なのですから、きっと優秀な人材が多かったのでしょうね。
あまり知名度が無い武将もいるかと思いますが、もう少し世間に知られても良いかもしれません。
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