あなたは三好実休という戦国武将を知っていますか?
戦国時代に畿内に覇を唱えた三好長慶の家臣です。
人によっては、三好義賢(みよしよしかた)と言う人もいますね。
そんな三好長慶の家臣の三好実休がどんな人だったのかを、辞世の句などもあわせてご紹介します。
三好実休はどんな人だったのか?
三好実休は、三好長慶の弟として生まれました。
早くに父である三好元長が死んでしまったため、幼くして政治的に重要な立場に就くことになりました。
初めは阿波細川家の当主である細川持隆に仕えていましたが、後に細川持隆を自害に追い込み、その子である細川真之を擁立して阿波細川家の実権を握りました。
戦いにおいては、鑓場の戦いなど多くの合戦で戦い、勝利するなど、優秀な指揮官としての能力も持っていたようです。
しかし最後には、久米田の戦いで戦死することになりました。
ちなみに、36歳で亡くなっていて、兄の三好長慶よりも早くにこの世を去ることになりました。
三好実休の辞世の句
三好実休の辞世の句は、次のように伝えられています。
草枯らす
霜又今朝の
日に消て
報の程は
終にのがれず
この歌の「報」については、庇護してくれた細川持隆を自分が死に追いやったことについて、気に病んでいたことが表れているとも言われています。
三好実休が建てたお寺
三好実休は法華宗に帰依していて、妙国寺を創建しました。
開山にあたっては、東西が300メートル、南北が500メートルもの広大な敷地を寄進しています。
三好実休は妻を奪い取った?
三好実休は、死に追いやった旧主君・細川持隆の妻であった小少将を強奪したという説があります。
ちなみに、小少将という名前は当時では流行りの名前だったようで、朝倉義景の側室や長宗我部元親の側室も同じ名前です。
三好実休の文化人としての一面
主君を死に追いやったり、数々の戦いに参戦するなど、「文化からは程遠い」イメージがある三好実休ですが、文化人としての一面も持っていました。
特に茶道については、堺の豪商である武野紹鴎から学び、今井宗久、北向道陳、千利休などといった著名な茶人とも交流しています。
また、三日月の壺をはじめとして、名物の茶器をいくつも所持しており、茶人であった山上宗二から「実休は武士でありながら数奇者だ」と評されています。
なお、三好実休が所持していた名物の茶器は、その多くが後に織田信長の手に渡り、本能寺の変で焼失したと言われています。
まとめ
三好実休の辞世の句や、妻を奪い取ったという説が有ること等について分かりました。
個人的には、数々の合戦を戦った勇将というイメージが強かったのですが、茶道に精通していたことが意外でした。
あなたにとって、この記事が何かの役に立ったのなら幸いです。
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